ユウ、ヒロ、ナツの戯言

男3人による戯言、雑記、日誌を散文的に

時代・25歳

空腹から意識を離すために、ラマダンの記録のためにしばらく書き続けようと思っているが、毎日ダイエット記録を書いていても面白くない。考えてみたら中学・高校・大学の想い出話は書いてきたが、20代中盤~30代前半の時代っていうのはあまり語ってきていない。その頃は友人関係も今よりも希薄だったからろうか。ではあの頃の話をしよう。

 

転落を楽しむくらいの気概はあった

 

俺が初めて公的に借金をしたのは大学4年生の時だ。ちょうど消費者金融が世の中に広まった時期。大学3年の時に、我が家の経済は破綻した。それまでは裕福な家庭に育ち、お金に苦労したことなんてなかった。しかし、俺が高校卒業すると同時に両親が田舎で飲食店を始めると一転する。当時両親が背負った借金は少なく見積もっても8000万円ほど。詳細は知らない。今思えば、すでに50歳を超えていた両親が背負いきれる借金ではなかった。東京で所有している一軒家を売り、マンションを売り、その度に東京で暮らす私の生活もダウンサイズしていった。俺はひばりが丘の小さなアパートへと引っ越し、仕送りは家賃だけとなった。それだけでも十分感謝している。裕福な家に育った弊害かな。俺は楽観的に考えていたし、ようやく学生らしいアパートに住めることに妙に喜んでいた気持ちもある。だがそんなに甘くはない。で大学4年の秋になると、俺はフル単を取る必要があり毎日授業を受け、放課後は卒業制作に時間を費やした。バイト代では食費でやっと。卒業制作にも金が掛かる。そんなとき大学のゼミのOBとの飲み会があって、こう言われたんだ。

 

「学生のうちは借金してでも自由な時間を買え」

 

こんな馬鹿な話はない。こんな馬鹿な先輩はいない。しかしもっと馬鹿な俺は週末には消費者金融へ行き100万円を借りてきた。当時は審査もだいぶ緩かったと思う。リボ払い式で雪だるま的に増えていく借金残高。それでも不安なんてなかったよ。馬鹿な俺は内定が決まっていた就職も辞退し、卒業後は小さな広告代理店でアルバイトを始めた。当たり前だが卒業すれば仕送りはゼロになる。時給1000円のバイトで借金の利息を返しながらの生活は苦しかった。それでも何とか生活できていたのは彼女と同棲していたからだろう。

 

25歳、狂った人生を馬鹿が歩いてく

 

25歳ともなると社会人になって3年目。仕事も慣れてきて給料もバイト時代よりかは上がっている。このころに覚えたのが風俗だ。俺はビビりだから乗り気はしなかったが、会社の同僚や友人に当然のように誘われ、当然にように店に行く。これでさらに金が無くなった。でもこれ以上生活水準は下げたくなかった。金がないから遊べないなんて言えなかった。言いたくなかった。俺は夜勤のバイトを会社に内緒で始めていた。ただでさえブラックだ。毎日終電まで仕事。そこから飲みにいく。金土日は0時から7時までバイト。ホテルでのキッチン補助のバイトだった。常に睡眠不足。常に金欠。電気は止まられるし、ガスも止められる。現実に目を向けるのが怖かった。深く考えないように、安いキャバクラでみんなと大声で笑っていた。全力で仕事をし、全力で現実逃避をして、夜はホテルのキッチンで心を無にしてやり過ごしていた。それでも借金は増え続け、いつの間にかその額は200万円をゆうに超えていた。

 

破滅へ向かってスキップさ

 

この狂った生活の中で唯一の灯が当時付き合っていた彼女だった。彼女は一学年下で、卒業するとアパレルショップでやはり時給1000円のアルバイトを始めた。金がないふたりで共通しているのは、金の使い方も悪いということだ。ある日、彼女も消費者金融に行き、100万円の封筒を持って帰ってきた。そして俺に服をプレゼントしてくれた。破滅へ向かって俺たちは手を繋いで歩いていく。馬鹿なふたりが安いアパートで笑いながら暮らしていた。馬鹿なふたりだが、この子がいなかったら俺は乗り越えていけなかったと思う。ふたりで現実に目を逸らしながら、強がって生きていたんだ。

 

続く