ユウ、ヒロ、ナツの戯言

男3人による戯言、雑記、日誌を散文的に

時代・27歳

2007年、選挙で自民党が歴史的敗北喫したがこの国は変わらず、ジョブズが発表したiPhoneが世界を変えた。エヴァンゲリオンの新劇場版が公開され、宇多田ヒカルの楽曲がラジオから流れている。

 

27歳、俺は6年同棲した彼女と別れ、その後浮気相手と付き合ったのだがすぐに別れ、東長崎のボロアパートへと引っ越した。これまで生活費を折半してたからこそ何とかやってこれたのが更に苦しくなった。しかし夜勤バイトを続けることにも限界を感じて、アパートの近くのオリジン弁当でパートを始め、土日の早朝は清掃のバイトを掛け持ちしていた。始発で清掃のバイトに行き、10時まで働く。そのまま移動して11時30分~夕方まで弁当屋。かなりきつかったがそれでも夜勤よりかはましだった気がする。そういえばiPhoneが発売されたと書いたが、当然私は金がなくしばらくガラケイだったことは言うまでもない。

 

東長崎のボロアパートからの再出発

 

相変わらず休みのない仕事と返済に追われる毎日だが憑き物が取れたようにこの頃の俺は粛々と生きるようになった。この頃の自分の変化を語るのは今でも難しい。遊びに飽きたとも言えるし、いい加減現実を受け止め出したとも言える。6年付き合った彼女との別れも小さくない影響を受けたし、いよいよ借金が洒落にならなくなり変わるざるを得なかったということが結局のところ一番大きかった気もする。平日は終電まで仕事、土日はバイト。それだけを繰り返した。今27歳を振り返ってみて思うのだが、この時期友人とも遠ざかっていた気がする。4年住んだボロアパートは苦しい思い出の象徴でもあり、人生の再生期の象徴でもあると思う。見栄を張るのを辞めて、無駄に遊ばず、酒に呑まれず、畳6畳の部屋で静かに暮らした日々を想う。人生で一番貧乏だったこの頃が一番穏やかな日々を送れていたのかな。

 

結局、馬鹿野郎で阿呆なまま生きていく

 

この翌年、後に元妻となる子との慎ましい交際が始まり、俺はいつの間にか出世コースを爆走し、金を稼ぎ借金は数年で完済。結婚し離婚し、会社を辞める…、再び激動の人生を歩むことになる。まさか東長崎時代と同じような貧乏時代を再び経験することになるとは思っていなかったが、実に俺らしい。実に馬鹿である。最高に阿呆である。そんな野郎とお付き合いしてくれているすべてのひとに感謝している。

 

20代に寝る暇もなく仕事に励んだこと。

20代に借金をして、電気やガスを止められたこと。

20代にそれでも遊び倒したこと。

 

これが今の私をギリギリのラインで支えてくれていると思う。

それだけは間違いないよ。

 

 

 

 

 

時代・26歳

2006年、まだスマホが登場する前。部屋ではTVを流していた。ほりえもんが世間を騒がし、安倍首相が経済政策を声高に主張している。村上ファンドの社長が逮捕され、トリノ五輪では荒川選手がイナバウアーを決めた。ラジオで夏は湘南乃風純恋歌、冬はレミオロメンの粉雪が執拗にリピートしている。

 

さよなら、表現者になりたかった自分

 

池袋のシアターグリーンでは、劇団スペースノイドが「スタンレーの魔女」を満員御礼で開幕した。この作品が俺にとって最後の映像協力となった。これを最後に映像制作からも離れることになる。いつも以上に舞台を注視したよ。舞台上で躍動するヒロフミたちの真剣な眼差しを忘れない。Tシャツの裾を後ろから掴まれている気分でそれでも俺は前に進んでいると思ってたんだろうな。この男たちに惜しみない賛辞と羨望の眼差しを贈り、俺は社会の渦へと進んでいく。俺は表現者ではない。観客だ。

 

アンダーグラウンド・池袋を疾走する虚しき者たち

 

風俗に早くも飽きた俺たちは、よりディープな闇へと向かっていく。たどり着いたのが「アダム&イブ」というバーラウンジだ。ここは逢引斡旋バーである。俺たちは夜な夜なここに通い、女を見繕ってこの店を出ていく。飲み直すこともあれば、カラオケに行くこともある。しかし大抵はホテルに行くもんだ。急にウィッグをはぎ取り坊主頭を晒してくる女、足の裏までタトゥが入った女、三十路を過ぎて自分の性を試したい女、リストカットだらけの女…。2時間後、同じホテルに入った悪友と連絡を取る。男たちも女たちもホテルのやっすいローブを羽織っただけの姿で、ホテルを抜け出しそのまま池袋の夜を笑いながら走った。馬鹿なやつらが馬鹿なことをしている。そのことを池袋の夜は許容してくれる。ホテルまで戻るとそれぞれの部屋に分かれ、朝まで少し眠る。こんな一夜限りの関係でも寝るときに女は俺にくっついてくる。心は通じなくとも人肌の温もりが彼女たちを癒すのだろうか。愛でもない恋でもない。底辺で藻掻く俺たちは虚しい性交渉を終えると、もっと虚しくなる。だけど俺も人の温もりを感じたりしていた。

 

いざとなったら犯罪の線引きも曖昧になる

 

入社4年目となると会社では格好の餌食だ。給料は安いままで膨大な仕事を振られる。相変わらず借金をこしらえながら、終電まで仕事しそこから飲みに行き夜中のタクシーでは自己嫌悪に陥る。週末のホテルでのバイトも変わらずだ。この生活がいつまで続くかなんて考えたくもなかった。バイト仲間に中国人の青年がいた。俺よりも少し年下だったと思う。片言ながらも日本語のコミュニケーションには問題ない。そんな彼が俺に提案してきた。「中国人と結婚しないか?」聞けば、ビザ取得のために日本人と婚姻するというのが横行していたらしい。結婚しても一緒に住むことはなく、関係性はもたなくていいと。報酬は100万円だそうだ。今思えばどうせ「×」のつく俺の戸籍。100万円でくれてやってもよかったな。なんて当時は思えなかったけれど。その青年と俺は毎日食糧をホテルの冷凍室から盗んでいた。それも彼に教わった処世術ではある。お蔭で食費が浮く。浮いた金はまた酒に消えていく。

 

真夜中の3時、何者でもない俺たちはただ寄り添っていた

 

この頃、N子とはよく飲み歩いた。大学の飲み会があっても俺とN子が参加できるのは深夜だ。とっくに解散している。そのまま二人で朝まで飲んだ。今でも覚えているのはクリスマスの日に渋谷のクラブにふたりで行った日のことだ。俺はクラブなんか行かない。N子は嵌っていたんだ。激務をこなし、不条理に晒され続けた彼女はこの頃だけだが俺と同じように狂っていたんだと思う。べらべらに酔っぱらってクラブを出たのは真夜中の2時、ふたりしてヨタヨタと歩きながら渋谷のホテル街の外れで目の前に光るネオンは「空室あり」。「ねみーわ」なんて嘯きながらホテルへと入っていく。頭は朦朧としつつも「やるのか?」「やれるのか?」心が騒めきだす。とりあえずシャワーを浴びると徐々に思考もクリアになる。「あ、俺やれねーわ」と思った。別に倫理感じゃない。友情を保ちたいということでもなかった気がする。「この女とはできない」そう思っただけなんだ。このことが結果論として長く続く友人関係を強固のものにしたとは今は思っている。恋人にも愛人にも成れない俺たちは共に暗い時代を歩む戦友だった。一緒のベッドで添い寝しながら、お互い眠れずに天井を見上げたままぽつりぽつりと彼女が話し出す。天井の鏡に映っている俺たちはどんな顔をしていただろうか?

 

「こないださ、彼が自分の息子に電話している会話を聞いたんだよね。」

「うん」

「すごくいいパパって感じでさ」

「うん」

「この人、お父さんなんだって思って」

「うん」

「もうこの関係続けられないわ」

「うん」

 

2年後にN子は結婚する。もちろんこの不倫相手ではなく誠実そうな青年と。ハワイでの挙式には行けなかった代わりに俺は友人代表スピーチを文章にして送った。その返答は、「あの日、何もなかったことが尊いね」だった。

 

続く

 

 

 

時代・25歳

空腹から意識を離すために、ラマダンの記録のためにしばらく書き続けようと思っているが、毎日ダイエット記録を書いていても面白くない。考えてみたら中学・高校・大学の想い出話は書いてきたが、20代中盤~30代前半の時代っていうのはあまり語ってきていない。その頃は友人関係も今よりも希薄だったからろうか。ではあの頃の話をしよう。

 

転落を楽しむくらいの気概はあった

 

俺が初めて公的に借金をしたのは大学4年生の時だ。ちょうど消費者金融が世の中に広まった時期。大学3年の時に、我が家の経済は破綻した。それまでは裕福な家庭に育ち、お金に苦労したことなんてなかった。しかし、俺が高校卒業すると同時に両親が田舎で飲食店を始めると一転する。当時両親が背負った借金は少なく見積もっても8000万円ほど。詳細は知らない。今思えば、すでに50歳を超えていた両親が背負いきれる借金ではなかった。東京で所有している一軒家を売り、マンションを売り、その度に東京で暮らす私の生活もダウンサイズしていった。俺はひばりが丘の小さなアパートへと引っ越し、仕送りは家賃だけとなった。それだけでも十分感謝している。裕福な家に育った弊害かな。俺は楽観的に考えていたし、ようやく学生らしいアパートに住めることに妙に喜んでいた気持ちもある。だがそんなに甘くはない。で大学4年の秋になると、俺はフル単を取る必要があり毎日授業を受け、放課後は卒業制作に時間を費やした。バイト代では食費でやっと。卒業制作にも金が掛かる。そんなとき大学のゼミのOBとの飲み会があって、こう言われたんだ。

 

「学生のうちは借金してでも自由な時間を買え」

 

こんな馬鹿な話はない。こんな馬鹿な先輩はいない。しかしもっと馬鹿な俺は週末には消費者金融へ行き100万円を借りてきた。当時は審査もだいぶ緩かったと思う。リボ払い式で雪だるま的に増えていく借金残高。それでも不安なんてなかったよ。馬鹿な俺は内定が決まっていた就職も辞退し、卒業後は小さな広告代理店でアルバイトを始めた。当たり前だが卒業すれば仕送りはゼロになる。時給1000円のバイトで借金の利息を返しながらの生活は苦しかった。それでも何とか生活できていたのは彼女と同棲していたからだろう。

 

25歳、狂った人生を馬鹿が歩いてく

 

25歳ともなると社会人になって3年目。仕事も慣れてきて給料もバイト時代よりかは上がっている。このころに覚えたのが風俗だ。俺はビビりだから乗り気はしなかったが、会社の同僚や友人に当然のように誘われ、当然にように店に行く。これでさらに金が無くなった。でもこれ以上生活水準は下げたくなかった。金がないから遊べないなんて言えなかった。言いたくなかった。俺は夜勤のバイトを会社に内緒で始めていた。ただでさえブラックだ。毎日終電まで仕事。そこから飲みにいく。金土日は0時から7時までバイト。ホテルでのキッチン補助のバイトだった。常に睡眠不足。常に金欠。電気は止まられるし、ガスも止められる。現実に目を向けるのが怖かった。深く考えないように、安いキャバクラでみんなと大声で笑っていた。全力で仕事をし、全力で現実逃避をして、夜はホテルのキッチンで心を無にしてやり過ごしていた。それでも借金は増え続け、いつの間にかその額は200万円をゆうに超えていた。

 

破滅へ向かってスキップさ

 

この狂った生活の中で唯一の灯が当時付き合っていた彼女だった。彼女は一学年下で、卒業するとアパレルショップでやはり時給1000円のアルバイトを始めた。金がないふたりで共通しているのは、金の使い方も悪いということだ。ある日、彼女も消費者金融に行き、100万円の封筒を持って帰ってきた。そして俺に服をプレゼントしてくれた。破滅へ向かって俺たちは手を繋いで歩いていく。馬鹿なふたりが安いアパートで笑いながら暮らしていた。馬鹿なふたりだが、この子がいなかったら俺は乗り越えていけなかったと思う。ふたりで現実に目を逸らしながら、強がって生きていたんだ。

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

ラマダン2日目

2日目の方がはるかにしんどいね。

 

1日目は恐らく前日のエナジーがあったけれど、2日目になるとカスカスになってしまう。まず集中力は低下するし、思考能力も下がっているという実感がある。単純に空腹ってこんなにきついんだなと。食べようと思えば飯にありつけるだけ自分は幸せなんだとしみじみ想うよ。この飽食の時代、飽食の国で飯についてもっと考えるべきなかもしれない。

 

話を断食に戻そう。

結論、ここまできついことをやるなら正しい方法でやるべきという考えに至ったわけで、断食についていろいろ調べな直したうえでプランニングを変更する。

 

その結果!

 

夜1食ラマダン(20時間断食)を継続することにした。

ただし、その1食は「ちゃんとした食事」とすること。

 

1日で夜の4時間内のみ食事を取り、そこから次の食事までは20時間空けるというものだ。夜の食事では、糖質量だけ注意する。昨夜はバナナ+たまご1個とかほざいていたが、それは効果的でもなく、現実的でもなかったと反省している。要は糖質には気を付けながら1日1食はちゃんとした食事をしようねってこと。

ラマダン1日目

ボクサーの減量の厳しさを俺は体験している。

気を紛らわせるために、そしてやり抜くためにこのブログを綴る。

 

俺は今日からプチ断食を始めた。

さまざまなプチ断食方法があるが、

ラマダン流オリジナル断食に挑戦することにした。

 

ラマダン流とは日中は断食、夜ご飯1食分はOKというもの。

しかし夜1食なら何でも食べてよいというものでもない。

栄養面などにも配慮するのはもちろん、継続可能なラインを踏まえ、

以下のサイクルでプチ断食を11日間続けることとした。

ちなみにプチ断食期間中にサプリメントでの栄養補給は行うとする。

 

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1日目:夜にバナナ1本+ゆでたまご1個まで可

2日目:夜にバナナ1本+ゆでたまご1個まで可

3日目:夜一食だけ食べ放題(解放デー)

4日目:夜にバナナ1本+ゆでたまご1個まで可

5日目:夜に栄養に配慮した食事(炭水化物抜き)

6日目:夜にバナナ1本+ゆでたまご1個まで可

7日目:夜に栄養に配慮した食事(炭水化物抜き)

8日目:夜にバナナ1本+ゆでたまご1個まで可

9日目:夜一食だけ食べ放題(解放デー)

10日目:夜にバナナ1本+ゆでたまご1個まで可

11日目:夜に栄養に配慮した食事(炭水化物抜き)

12日目:検査

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【1日目の感想】

すでに辛い。もうくじけそうだ。

本当は完全断食にトライしたいと思ったのだが

できる気がしなかったのでプチ断食にした。

それでもすでにきつい。心なしか頭もぼーっとしてきた。

でもやり遂げるよ。体重がどれくらい落ちるかも楽しみだ。

 

 

 

 

 

青春を舐めるな!(中学暗黒時代編)

あんたは連れていけない

 

真剣な眼差しで母がそう言った。次の日に母は姉と兄を連れてうちを出て行った。念のためにと渡された住所の書かれたメモと当面の生活費として5万円。父は海外出張中という話だったが、浮気相手の家にでもいたのかもしれない。俺はこの時の母を恨んでいない。見捨てられて当然のクソガキだったからだ。そういうことで実質的な意味での一人暮らしが始まった中学2年の秋。

 

手作りの弁当がないやつらのことを不良と呼ぶ

 

うちの中学には給食がない。みんな手作り弁当を持参している。俺はお昼の時間になると教室を出ていく。ほかの教室からも5~6人。別に約束しているわけではないのだけれど、連れ立ってコンビニへと行くのが日課となった。所謂不良グループというやつだ。コンビニの前で飯を食い、そのまま学校に戻らないことも多々ある。俺たちだけが知っている廃墟へと向かい、眠くなるまではそこで過ごす。廃墟には多い時で15名くらいが集まっている。廃墟と言っても、元はオフィス兼社員寮だったのだろう。それなりに広いし、そこそこ奇麗だった。家出してほぼここで暮らしているようなやつもいた。壁は落書きだらけだ。

 

俺は不良ではない。でも同じ匂いを発する嫌われ者

 

ただ自分の周りが不良になっただけだ。90%が不良というサッカー部の中で俺が残りの10%に属しているというわけでもない。不良でもなければ善良な生徒でもないそんな中途半端なやつだった。不良たちは学校では嫌われ者、弱い者を迫害し、またその弱いものがさらに弱い者を迫害する。俺は誰にも加担しない。その代わり誰も助けない。俺は誰も殴らない。誰にも殴られない。罪深き傍観者だった。そして、本当に一番弱いのは不良たちだった。底辺で凄む弱い者たちが廃墟には集まってくる。ここは彼らの楽園だった。

 

放課後は喧嘩の毎日。公園にいれば他校の不良に絡まれる。たまり場に行けば他校に絡まれる。喧嘩にさしたる理由もないのだ。田舎町でみんな不良漫画に影響され過ぎている。おれはいつも強く宣言する。「おれは喧嘩はしない」。不思議なものでこれは効果がある。一度も手を出されたことがない。それでも喧嘩が起きた次の日には大抵教師に呼び出される。相手が怪我したとかなんとか。廃墟ことを誰かが通報したのだろう、警察官から追いかけられることも珍しくない。万引きや放火未遂、エスカレートしていく俺たちの日常。見かねた学校が不良の巣窟であるサッカー部を廃部にしようという話を出したらしい。不良ではない10%のやつらが俺たちに言ってきたよ。「お前らが退部すべきだ」と。確かにな。

 

不良品ならば作ったやつを責めてくれ

 

不良と呼ばれるか彼ら、彼女らと過ごしていると見えてくる。大抵は劣悪な家庭環境、貧困、ネグレクト…。親に槍で刺されたやつもいる。中卒で働いて家に金入れろって言われている。うちの当時の担任は暴力指導上等のイカれた教師で、ぼこぼこにされたやつもいる。勉強する理由がない。夢なんて持てない。中卒での就職先?パチンコかガソリンスタンド、それか肉体労働。就職できたとしても続くわけがない。みんなから疎まれるのは仕方ない。でも舐められたくない。可哀そうだと思われたくない。精神的な不安定な状況の中で、歪んだプライドを必死に守ろうとしている。同じ匂いがするやつらが集まり、心の拠り所にしている。匂いに引き付けられたやつらと毎日喧嘩している。喧嘩している間、彼らは現実から目を背けることができたのかな。廃墟に誰かが持ち込んだ電池式のカセットデッキブルーハーツとジュディアンドマリーが流れている。「おれさ、高校行ったらバンドやりだいんだよね。」って言ったら、谷間が見えるまでYシャツを開けている子が「ユウはいいよね。高校いけるんだもんね」って言った悲しい顔と谷間を俺は忘れない。ジュディマリが好きだというその子とはこの廃墟に集うメンバーで唯一、卒業後も縁が続いていく。

 

自我の目覚めと楽園の崩壊

 

中学3年生の進路希望調査。俺の周りの彼ら、彼女らは高校に行かないという選択肢がリアル。あとは定時制とか。そんな話をしているときに、ついに俺の自我は爆発したのだ。俺は喧嘩なんかしたくない、だいたい俺は喧嘩する気がないのに弱そうだから真っ先に絡まれる。警察から追いかけられたくない、そもそも不良になったつもりもない、だいたい不良なんてださい、高校にはいきたい、青春したい、私の周りにはヤニ臭い茶髪女子しかいないが本当は黒髪の清楚系が好みだ!そんわけで俺はこのグループを抜ける宣言をする。怒り出すやつもいるかなって覚悟していたけど。なぜかな。みんな悲しそうで寂しそうな顔を向けてくるだけだった。このすぐあと、うちの絶対的番長Kが他校に喧嘩で負けた。またNO.2のYが窃盗罪で逮捕されて鑑別行き。廃墟は警察が介入し立ち入り禁止に。そんなわけで私がわざわざ抜ける宣言しなくても解散状態になるわけだけど。でも、Kが喧嘩に負けた話を聞いた時、Yが逮捕されたと聞いた時、悲しくなったを覚えている。KともYともあれから一度も会っていない。

 

それでも戻ろうとは思わなかった。

 

そんなわけで俺は高校に行くために勉強を始める。噂では2学期の成績が重要らしい。2学期の試験だが、俺は主要5教科すべてで学年5番以内に入った。当時のうちの学校では点数順にテストが返されるので、俺の名が一番最初に呼ばれると教室は静まり返った。でも相変わらず、遅刻はするし早退はするし、授業中は寝ているし、宿題は一度も出したことがない。

 

これはどうでもいい話なのだが、話を初夏に戻す。プールの授業をさぼって見学していた時。巨乳という噂の女子を俺は悪びれもなくずっと眺めていた。確かに他の女子とはボリュームが違う!その女子は俺の目線に気が付くと、わざわざ遠回して俺に正面を向けないようにプールから上がっていった。そのあと、女子は体育教師にちくったんだろう。教師は女性だったがさすが体育教師。憤怒の表情で俺のところまで走ってきてプールサイドでぶん投げられた。ただでさえ嫌われているのに、変態の称号まで手に入れちまった。女子の水着を眺めていて、本人に気が付かれ、教師に投げ飛ばされるというこの生き恥。この記憶も中学を暗黒時代とする理由のひとつである。

 

俺はときどき爆発する

 

話は秋口に戻る。お昼の時間に外を抜け出すのは辞めた。コンビニにいくやつらとは極力顔を合わせないようにしたかった。お昼時間、ずっとブルーハーツを聞いていたよ。クラスの大人しい女子がこっそりおにぎりをくれるようになった。何聴いてんの?って話しかけてくる奴がいた。俺はようやく平穏な生活を取り戻しつつあった。ある日、いつものようにその女子が俺にこっそりおにぎりをくれた。その日の放課後。教室には10名くらいがいただろうか。何がきっかけだったか?騒ぎ出すやつがいた。例の女子が俺におにぎりを渡していることに気が付いたらしい。そいつが煽り、クラスのやつらが冷やかす。お調子者がコールを掛ける。「ふうふ!夫婦!夫婦!」複数名が声を合わせる。女子は何も言い返せず俯いて顔を真赤にしている。俺は自分の椅子を掴んでそいつらに全力で放り投げた。机のうえで椅子が跳ね、コールしていたやつに当たる。興奮したのかなぜか俺は鼻血を出していた。鼻から落ちる血がYシャツを染める。静まりかえる教室。みんなの心底ひきつった顔は今でも忘れられない。ふと教室の前に目線を動かすと、教師の顔が怒りに歪んでいる。おれは「だれか、テッシュ!」と声に出していた。誰もかしてくれるわけがない。俺は教室を出て行った。

 

後日、担任に職員室まで引きずれるように連れていかれた。隅にある応接セットのようなところ。学年主任(男性)、担任(男性)、なぜか英語の女性教師(ばばぁ)も同席する。教師たちが語る話の筋はこうだ。意外にも教室での件が主題ではなかった。今更点数をとってもお前に良い成績は上げる気はない。今更テストだけ頑張ったって俺は認めない。素行も成績の一部だ。お前が5(成績は5が最高点)なんてありえない。で、女性教師がヒステリックに口を挟む。あんたのような人間が一番卑怯。点数だけ良ければよいと思っている…。あなたがクラスの雰囲気を壊しているのが分からないの?俺は途中から早く終われと思い、話も聞いてなかった。するとその態度が気に入れなかったのか、学年主任が声を上げる。「おい、顔を上げろ!目を見ればわかるんだよ。お前の目はY(鑑別にいった)とそっくりだな!」

 

おれはいつも思っていた。喧嘩はしない。どうせ負ける。もしやるなら喧嘩ではない。一方的に殴るか蹴るかだ。卑怯な手も躊躇わずに使う。俺はそのそぶりを見せないようにして、それでいていきなり、主任教師に殴りかかった。不意を突いた一撃。さすがは大人だと思ったよ。担任が寸前で止めた。すぐに羽交い絞めにされる。ばばぁが悲鳴を上げている。「おいばばぁ、俺は成績が欲しくて勉強したんじゃねーよ。お前らに気に入られるために勉強したんじゃねーよ!」俺は何に怒ったのかな。Yが鑑別に行ったのを、教室で教師が病気と説明したことかな。彼らを不良の一言で片づける大人にかな。何もかも上手くいかない自分にかな。青ざめた顔のばばぁが呟いた。

 

あなたは狂っている

 

俺はここから学校に行ってない。秋から受験が終わる2月末まで。俺はメモを頼りに母親のところに行った。案外すぐ近くだった。「高校に行きたい。でも内申点は絶望だから都立は無理。塾に行かせてください。」母親が出した条件は2つ。1、兄貴が通っていた高校を受けること。2、家庭教師を付けること。最後に学校はそのまま休んで勉強しなさいと言われた。案外話の分かる親なんだって妙に感心したのを覚えている。

 

学校を休んでから、中学では疎遠になっていた小学校時代の友人数名が放課後うちに来るようになった。秋から2月までほぼ毎日だ。彼らはクラスが別だったので、俺の状況を詳しくは知らなかったのかもしれない。でもそのお蔭で友達のいないまま中学校生活を終えることは避けられた。3月からは学校にも行った。相変わらずクラスでは浮いていて、卒業式の日のクラス会にも誘われなかった。行く気もさらさらなかったけどな!卒業式を終えるとそのままひとりで暮らすうちに帰った。そんなわけで卒業後、一度も同窓会には参加していない。俺にとって卒業は何か不自由で歪な世界から抜け出すことの象徴のようだった。だからもうここには用がないのさ。

 

このくそったれな学校と地元と自分にさよならだ

 

束の間の春休み。おれは一人で妄想する。さて、このくそったれな生活をどう変えるべきなのか?思い描く青春とやらはどこに行けば手に入るのか?

 

バンドは絶対にやる。まずはブルーハーツコピーバンド。あ、ジュディマリコピーバンドをやって、あの子に歌ってもらうのもありだな。オリジナルの曲を作ってライブもしたい。バイトをしてギターを買おう。友達と夏は海へ行きたい。冬はスノボに行きたい。彼女も欲しいし、デートもしたい。友達と馬鹿話をしながら夜を越したい。大いなる期待があるからこそ不安もあった。上手くやれるだろうか?高校入学編へと話は繋がっていくわけだが、とりあえず俺は全部叶えたよ。

 

「なぁ、ヒロフミ。バンドやらないか?」

 

 

 

 

 

青春を舐めるな!(高校入学編)

書き続けることに意味があるのかもしれないと思い、ブログを綴ることとする。

 

高校時代のエピソードを語ろう。

 

中央大学付属高校を落ちた私は不本意ながら男子校へ入学することになる。男子校ということで私は入学前に多くの夢を諦めた。女子がいる文化祭、体育祭、修学旅行…。いやイベントだけではない!そこに女子がいるということが重要だったはずだ。しかし、いないからといってすべてを放棄するわけではない。たとえ男だらけの生活になろうとも私は高校生活に夢を持っていた。補足すると、私の中学時代は暗黒期のため、高校こそはという想いがあったのだ。

 

高校生にもなれば中学時代よりも格段に行動力があがる。バンドもやりたいし、友達と旅行も行きたいし、彼女だってやっぱり欲しい。私は、「虹色に輝く青春を必ず手に入れてみせる!」とひとり決意するのだった。

 

新入生の春というのは間違いを犯してはならない。この時期にクラスの立ち位置が決まり、所属するグループも決まる。しかし、焦ってもよくない。教室に入ると、まず40名全員男子という黒ずんだ景色にげんなりするがそこはスルーする。私はその苗字から一番右端の一番後ろの席であった。昔から新学期ではまず名前順ということが多いのでここは想定内。ちなみに一番端でしかも一番後ろというのは、友達作りのうえではかなり不利だ。私の席の周りでは早くもグループができていた。サッカー部×やんちゃ系(マイルドなヤンキーもしくはライトなギャル男系?)。私は早々に「ここではないな」と思った。目ざとく、教室全体を眺める。2列離れた席界隈(教室の中央後方)では、佐々木という男が頭角を見せつつある。なるほど、さぞ中学時代は人気者だったに違いない。そのさらに横の列に目をやると、鈴木、鈴木、鈴木…!鈴木が3人もいやがる!しかもそのうちふたりは同じ顔(双子)。ややこしいから同じクラスにするなよ!うーん、この双子はスルーだな。佐々木と双子じゃない鈴木(ヒロ)が会話している様子を俺は眺めている。「ここだな」そう思った。しかし席が離れているため、なかなかきっかけがない。ただでさえ席のハンデを感じている中で私は3つのミスを犯すこととなる。

 

①春の遠足を不参加

入学早々に親睦を深める目的で遠足があった。当日の朝、キッチンで洗い物中にうっかり、ばっさり手を切ってしまい。そのまま病院で10針縫っていたため欠席したのだ。親睦を深める遠足を欠席したのはかなり大きなハンデとなった。私はこの時期は一人暮らしをしていたため、家のことは自分でやっていたのだ。

 

②うっかり秀才であることがバレる

一応は進学校ということだろう。入学早々に学力テストがあった。受験を終えたばかりの私にはどうでもよいテストだったのだが、うっかり学年2位になってしまった。ちなみに1位がげんちゃんで3位がワタナベという俊才ツートップに挟まれる形であった。勉強ができるというのは当時の私にとってはマイナスでしかなかった。佐々木と鈴木の顔を見てみろ。あの助平そうな顔、馬鹿そのものではないか。ちなみに私の席の前のAを含むやんちゃグループからは「頭がいいやつとは友達になれないわ!」という陰口でもないただの「お前とは友達になれない宣言」を言われたことをはっきりと覚えている。

 

③俺は田舎者だった!

これはなんの機会だったのかは記憶にないのだが、入学して早々に私服で集まることがあった。私は特に気合も入れずに、いつもの服で出かけた。しかし、集合場所で気がついた。「しまった!」都内の私立高校生たる者、私服を舐めてはいけないのであった。みなそれなりに流行のファッションで身を固めているではないか。佐々木にはっきりと「ダサいな」と言われたことを今でも覚えているぞ!これは私の作戦が裏目に出たことでもある。次回で語るが、私は地元ではヤンキーグループに属すという黒歴史がある。そのため高校ではヤンキー臭はいっさい消すことを意識していたため、大人しい恰好をするということもあった。まーでも結局は田舎者だったということだろう。

 

この3つのミスで私は、高校生活への期待は半ば諦めた。地元には友達もいるし、バンドも地元で組めばいいし(実際に組んだ)。そもそも、背も小さく、見た目も普通な私が虹色の青春なんて烏滸がましい。そもそも男子校だしな。

 

淡い期待は捨てるべきなのだ…とはならなかった!

 

私は多少強引に、佐々木やヒロのグループへと編入していった。何となく上手くやっていけるという対人関係における謎の自信と高校こそは楽しむという意地が私を動かしたのである。

 

私は夏休みに入ると、髪型を変え、ピアスを開け、服を全部買い替え、腕には数珠を付け、高校生活も5か月が経とうする中で、今更ながらのフルモデルチェンジを行う。これまではザ・学生規定の通り!という制服ファッションも、袖無しニットを羽織、シャツは夏でも長袖、パンツは緩く下げ気味(腰パン気味)、靴はブランドのローファー、鞄はぺしゃんこに潰して肩に掛ける。ポパイを読み、ホットドックを読み、私は急激に都内の男子高校生水準へと変貌していくのであった。結果的にイケてる高校生にはならなかった(なれなかった)のだがね。

 

紆余曲折はあったが、こうしてバカまっしぐらの高校生活を歩みだすことになる。ちなみに入学当初のヒロは美しいまでの真ん中分けで(亀頭ヘアと呼ばれていた)、背の高いポテンシャルを活かしきれていないやはり田舎者だった。そんなヒロに俺は密かに親近感を持っていたのだが、彼も同じだったのではないかと俺は睨んでいる。

 

「憧れの青春なんて自分にはない」なんて言う若者がいるが、私は青春を舐めるな!と言いたい。黙っていれば手に入るものではなく、恥ずかしい思いを何度もしながら勝ち取るものなんだよとね。