ユウ、ヒロ、ナツの戯言

男3人による戯言、雑記、日誌を散文的に

悲しき天才の矜持

囲碁の話をしよう。

 

時は江戸時代末期。

当時の碁界は、

徳川幕府の加護を受けて、

全盛期を迎えていた。

 

当時、名人御所という位があり、

世に隔絶した力を持つ棋士だけが

与えられる称号であり、地位があった。

それは棋士にとって最高の名誉である。

 

その名人御所に最も近づきながら

とうとうその夢を果たせなかった男がいる。

その名は、幻庵。

悲運の天才。

 

実力は、碁界屈指でありながら、

政治的陰謀に敗れ、名人御所に就けなかった。

 

当時、文字通り囲碁は命がけで打つものである。

幼少期から、囲碁に没頭し、遊びぶことも恋をすること

もなかったという幻庵。

 

10歳の頃にその才を認められ、

故郷を離れ、ひとり江戸で修行に励み、

20代の頃には、江戸屈指の棋士となった。

 

そんな幻庵は、中年期以降、弟子の育成に努めていた。

自分の弟子こそは、名人御所に就かせてみせる。

それが、幻庵の悲願であった。

 

しかし、中年期に一度、天の巡りあわせで、

名人御所に就く好機がやってくる。

当時の名人御所の本因坊丈和と

対決することとなったのだ。

やっと巡ってきた好機に、

幻庵の意気込みは尋常ではなかったはずだ。

 

しかし、彼は病に伏せてしまう。

例え命を落としてでも囲碁を打つと決意する

幻庵に、妻が泣きながら懇願する。

「今囲碁を打ったら、あなた様は死にまする。

どうかお辞めください。」

 

恋もせずに歩んだ10代、20代。

当時としては晩婚で迎えた妻。

棋士として囲碁で死ぬるは本望。

しかし、我は期を逃したり…。

 

妻と余生を穏やかに過ごすもまた人生か。

幻庵は、対決を辞退した。

妻と過ごしながら、弟子の育成に励もうと。

 

しかし、ある日、事件が起きる。

愛弟子と妻が逢引きをして、失踪したのだ。

 

名人御所になれずとも、当時の幻庵と言えば、

碁界切っての大物。

将軍の前で、囲碁を披露するほどの存在だ。

そんな格式高き男の妻が、愛弟子と逢引き…。

そのプライドをズタズタに切り裂かれたのだ。

 

自分の生涯最後の好機を止めた妻。

将来の名人御所にと育てていた愛弟子。

そのふたりに裏切らてしまうのだ。

 

幻庵の当時の心境は想像に絶する。

 

当時の不倫は重罪。

相手の男を切り殺しても許されるというのだから、

さすがは江戸時代だ。

幻庵は、妻と愛弟子の行方を探る。

そして、とうとうふたりの住処を見つけ出す。

その家は、貧しい者が住む長屋だった。

逃げたふたりは生活に困窮していたらしい。

 

長屋の扉を勢いよく開く幻庵。

ふたりは黙って土下座をしている。

 

幻庵は、付き人に命じて、荷物を長屋に運ばせる。

それは、碁盤と碁石だった。

 

幻庵は、愛弟子に言った。

「女は惜しくないが、お前の才は惜しい。

精進しろよ」

それだけ言うと、幻庵は長屋を後にした。

 

何という男だ。

自分の妻が、自分の弟子と不倫をして、

こんな言葉を掛けられる男が今の世にいるか?

 

生涯を囲碁に捧げ、ついに夢は叶わず。

妻と愛弟子に裏切られるも、男の矜持を捨てることなし。

 

現在の棋士から見ても、天才と言わしめる幻庵。

その悲しき生涯ながら、一切の哀れみなし。

 

天下無双の棋士なり。